「北極閣付近」2,000余人の遇難同胞紀念碑。

 「北極閣付近遇難同胞紀念碑」は、1937年12月13日(南京城占拠)に前後して繰り広げられた大虐殺に関わる紀念碑の1つであるが、この地周辺で殺戮されたままに散乱・放置されていた遺体が付近の人々によって翌年の1 … 続きを読む : 「北極閣付近」2,000余人の遇難同胞紀念碑。

「太平門遇難同胞紀念碑」。南京大虐殺から70年目の2007年に設置。

    太平門紀念碑は、中日友好団体の協力により、紫金山下の広大な蓮池と太平門に程近い道路沿いに大虐殺70年を迎えた2007年12月13日に、建立され、最も新しい遇難同胞紀念碑である。日本軍第16師団 … 続きを読む : 「太平門遇難同胞紀念碑」。南京大虐殺から70年目の2007年に設置。

「午門」(旧・正門)から午門公園に入り、旧遺跡を訪ねる。

  明故宮城址の建築石材は、盗難利用や破壊などの散逸を避けるため、南京城郭内に厳重に保管管理されている。その建材構成石物の中に、宮崎県平和公園内の「旧・八紘一宇の塔」に使用された略奪石材に関わるものが見当たらな … 続きを読む : 「午門」(旧・正門)から午門公園に入り、旧遺跡を訪ねる。

「幼児教育の現状を、黄先生に聞く」

 今回の視察団員には、西尾 達 事務局長が保育園長であり、教育関係者が多かった事から、通訳の王 建民さんの好意で、現職の幼稚園教育職員の黄先生と夕食を戴きながら歓談する機会に恵まれた。黄女史は20年以上も幼児教 … 続きを読む : 「幼児教育の現状を、黄先生に聞く」

「挹江門(ゆうこうもん)」近くの集団埋葬紀念碑。6回で5,100人。

 「挹江門(ゆうこうもん)」 付近に放置されていた惨殺死体を、1937年12月から1938年5月にかけて、6回に及ぶ回収を行い延べ5,100人の遺骨が集団埋葬されており、1985年8月に慰霊碑が建立された。(井 … 続きを読む : 「挹江門(ゆうこうもん)」近くの集団埋葬紀念碑。6回で5,100人。

香焼捕虜収容所犠牲者追悼記念碑。説明板設置と建立委員会委員の刻名。

 福岡ふ虜収容所第2分所(香焼捕虜収容所)の犠牲者記念碑は、アジア太平洋戦争で日本が敗北して70年を経た昨年9月13日に、ようやく建立除幕式を迎える事ができた。その時までには、場所を示す写真説明板がなく、また、 … 続きを読む : 香焼捕虜収容所犠牲者追悼記念碑。説明板設置と建立委員会委員の刻名。

「中山(ちゅうざん)埠頭」では延べ1万人以上が犠牲に。

 北京で亡くなった国父・孫文の遺体は南京の陵へ運ばれたが、揚子江を渡り江蘇省南京への上陸地が「中山埠頭」である。ここには、「南京国際難民区」内に避難していた人たちが、まず5,000人、12月18日には、若者たち … 続きを読む : 「中山(ちゅうざん)埠頭」では延べ1万人以上が犠牲に。

「煤炭港(ばいたんこう)」紀念碑。3,000人が犠牲。

  揚子江沿岸のこの地は、石炭の積出港で、現在では使われなくなった列車の引き込みが複雑に交差しながら残っており、往時の繁栄ぶりをしのばせる。ここでも3,000人の犠牲者を悼む碑があり、機関銃で殺戮したあと火がつ … 続きを読む : 「煤炭港(ばいたんこう)」紀念碑。3,000人が犠牲。

「燕子磯(えんしき)」武装解除の兵3万人、民間人2万人を殺害。

 眼下に長大な揚子江が見える場所に、「燕子磯江灘」がある。3万人の兵士。2万人の民間人。合わせて5万人が殺害され、揚子江に捨てられ沿岸部は死体で埋まった。殺戮手段は、この地も同じく非道の限りを極めた。(井原東洋 … 続きを読む : 「燕子磯(えんしき)」武装解除の兵3万人、民間人2万人を殺害。

「草鞋峡(そうけいきょう)」   57,000人が捕らわれる。揚子江沿岸。

  「草鞋峡」の碑は、ひときわ大きい。新鮮な花が手向けられていた。揚子江に近い「幕府山」の麓に、武装解除された兵士や民間人たちが捕らわれ、57,000人もの人々が集められた。凌辱されたあげく、寒冷に震える中で、 … 続きを読む : 「草鞋峡(そうけいきょう)」   57,000人が捕らわれる。揚子江沿岸。