故井原東洋一 一周忌・初盆そして福岡俘虜収容所第2分所追悼祈念式典

9月16日(水)新型コロナウイルス感染はまだ終息していないが、少しずつ日常を取り戻しつつあるように感じる。何の科学的根拠もないが、皆何となくそう感じている。これからまた冬がやってくるので、マスク・手洗い・ソーシャルディスタンスを保ちつつ、この生活様式に慣れていくのだろうか。何にせよまだ油断はできないが。

このコロナ禍の中、8月28日に安倍首相が辞任会見を行い、昨日菅前官房長官が自民党総裁に選ばれた。オリンピックや万博などよりも、いまだ復興途上の被災地や、コロナで生活をおびやかされた国民の救済措置を第一に優先していただけることを切に願う。

さて、この二か月間で父東洋一に関する行事が一通り終わったので、ご報告いたします。関係者様各位には改めて御礼申し上げます。

まず7月25日に、30日の命日に先立ち一周忌法要を行った。お寺にも人数制限があったので、ごく内輪で行った。

改めて、父はコロナのことを知らずに行ってしまったのだと感じた。1年前には、新型ウイルスが世界中に猛威を振るうとは誰も思いもしなかった。

法要の後の会食で、父の活動をまとめた20分ほどの映像をご出席者に見ていただいた。市議会での質問、2004年に私も随行した北朝鮮への平和友好の旅、カラオケを歌う普段着の父など、6時間以上の映像をまとめたのだが、まだまだたくさんの資料が残っているので、三回忌までにはまとめたいと思っている。

一旦名古屋に戻り、今度は父と父の姪の初盆で8月10日夜また長崎へ。久々三兄弟が揃って、父が生前贔屓にしていた店を毎日回った。兄弟一緒にワイワイ飲んだ。銅座よ永遠なれ!自宅にもたくさんの方々にお参りに来ていただき、墓や玄関にも提灯を飾った。

そして8月15日、片淵四・五丁目自治会が毎年作る「催合船(もやいぶね)」に乗せていただいた。父の写真と、伯母たちが千羽鶴で作った「平和」の文字が舳先に飾られた立派な船が完成し、皆さんの手でその日の夜無事に流された。一区切りがついたようで、少しホッとした。浄土に帰って、みんなで再会を喜び合っているのだろうか。

一段落して、昔みんなでよく行った伊王島に行って海を見てきた。夏の故郷長崎はいろいろなことを思い出させる。百日紅の花を今年はたくさん目にした。

そしてまた、名古屋に戻り9月に入りまた長崎へ。今度は、叔父の三回忌と香焼にある福岡俘虜収容所第2分所追悼碑の建立5周年追悼祈念式典のため。9月12日の式典はコロナ禍のため、海外からの慰霊のお客様が来日できず、来年に延期されたのだが、関係者のみで慰霊を行った。

台風10号の影響で、追悼碑の裏の中学校の体育館の壁が吹き飛んで、補修工事をやっていた。当日の未明にも突然の豪雨で開催が危ぶまれたが、開始間際奇跡的に雨は上がった。

式典が終わった後に、原爆死没者の名簿が安置されている国立長崎原爆死没者平和祈念館に行って。備え付けのPCで父の遺影と生前の映像を見ながら、いろいろな行事が無事に終わったことを報告した。

長崎はJRの駅が新しくなり、昔の線路はもうなくなっていた。長崎駅のホームで、見送ったり見送られたりした様々なことを思い出した。古いものが壊され次々に新しくなっていく長崎の町。入れ物は変わっても人々の人情は変わらず優しく暖かかった。そういう人たちが安心して暮らせるような国になることを願い、また日常に戻った。最後に父の9年前のブログの文章を再掲します。

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「今日、75歳の誕生日。4分の3世紀を生きる。わが日常に悔いなし」(2011年3月9日)

1936年(昭和11年)3月9日生まれ。ねずみ年。水呑み百姓井原家の次男で、姉4人、兄1人の6人兄弟姉妹の末っ子。すぐ上の兄とは7歳違い。父56歳、母48歳で誕生。「日暮らしっ子」と呼ばれて育つ。1942年4月、西彼杵郡矢上村立矢上国民学校入学。1945年8月、4年生で原爆被爆。1948年、矢上小学校第1回卒業生。首席で矢上村立矢上中学校入学。1951年矢上中学校を首席で卒業。長崎工業高等学校首席入学。1952年12月、母死去(64歳・原爆症?)。1954年3月、長崎県立長崎工業高等学校電気科卒。長工高卒業生総代。4月九州電力(株)入社、通信部門に勤務。1957年20歳で19歳の和子と結婚、3男0女。1958年、全九州電力労働組合結成参画。分会、支部、本部役員を経て、30歳で本部書記長3ヶ年。1969年長崎県本部委員長。長崎地区労副議長11ヶ年。長崎県地方労働委員6ヶ年。日本社会党支部、総支部書記長を経て、長崎県本部総務部長23ヶ年。1987年4月長崎市議会議員初当選以来6期連続当選。片淵4・5丁目自治会長24ヶ年。1990年上長崎地区自治会連合会長15ヶ年。1996年新社会党結成、長崎県本部委員長。2004年2月、愛妻和子肺ガンで死去、67歳。2006年、長崎県被爆者手帳友の会会長。その他いろいろー。今にして思う。何故そんなに尖って来たのかと問い返す。おかしい事はおかしい。許せないものは許さない。我が人生は権力におもねず、自分に対しても常に厳しい闘いの連続であった。山登り、映画、読書、旅行など多趣味。詩吟は皆伝を認許さる。我が人生に全く悔いはない。未知への挑戦は続く。まだまだ4分の1世紀、100歳までには25ヶ年間も残っている。後期青年期に入ったばかりだから。お祝い下さった皆さん。有難う。  長崎市議会議員 井原東洋一


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